昭和50年07月01日 月次祭
今日の朝の御祈念を終わらせて貰うて、皆さん帰られた丁度後くらいでしたでしょうか。久富正義さんがある方をお導きして、お参りをして見えられました。その方が申されますのに、今年も約半年は終わらせて貰うたが。この残された半年余りをです。いうなら信心によって生き方を変えたい。どういう生き方をさせて頂いたらおかげになりましょうかというお伺いでした。
皆さんどうですか。もう大祓い式も終わって、六月三十日を終わった。いわゆるちょうど半年が終わった訳でございます。おかげを受けてこういう生き方で行きさえすれば、おかげになる間違いないと確信の持てる人はそれで良いのです。恐らく毎日毎日が有難いのであろう、勿体ないであろう。その有難いに勿体ないに、またおかげも寄り添うておる事だと思うのです。
これほど信心するのにおかげが受けられない。どうしてどこにと言う様な、私は思いでおられる方は今日の話を一つ、じっくりと聞いて頂きたいと思うのです。今年もいわば半年は終わった。そこで後の半年というものをです。その方もきっと色々にあれやらこれやらと、なさった事であろう。身はここの高良神社の神官の方のご子息なんです。いうならそういう深い信仰の家に生れ育てられた訳なんです。だけれども敬信の念は誰一倍強いお方に違いはないです。けれども教えがない。
かくすればかくなると言う、はっきりした目当てがない。たまたま久富正義さんとの奇遇を得て、正義さんのどこかに感じられたのでしょう。今ご結界奉仕しておる人が、正義さんです久富さんです。久富建設とあそこで何ち言うですかね、耳納何とかばしよりなはるとです。おかげを頂いてから大変まぁ繁盛のおかげを頂いております。それで私はその方の事を、お取次させて頂きましたら、その方の姓名を頂きました。
その方の名前は平木まさ何とか言いなさったですね。平木さんと言うんです。平木ただし何とかという、ちょっと失念しました。また今晩の月次祭にもお参りを頂きたいと言うておられましたから、お参拝になっておられると思います。ですから結局あなたの自分の姓名、名前を一つ何時も心にかけて行かれたら良いですよ。平と言う事は平たい。木は心と申しますから。いうなら何時もひれ伏した心の状態だと言う事でございます。そこに正しいおかげの道が着いてくるという様なお名前でした。
それをお道の信心では実意丁寧神信心と申しますと。その実意丁寧神信心の、まぁちょっとした見本が、久富正義さんですよ。お付き合いになっておられてから、正義さんと話をしておられるうちに、人間的魅力もあることながら。やり方なすこと言われる事が、どことはなしに違うと思いよったら、合楽のご信者げなと言う事になって、是非自分も一遍導いて参ってくれと言う事になったんです。自分の人柄が変わってくる。内容が言う事がする事が変わってくる。
教祖の神様というお方は、ご自身が無学のお百姓と仰せられまするが、それでも実意の権化のようなお方であった。真の人であった。それが様々な難儀に出合われるたんべんに、研かれておいでになられた。そしてお道の信心の生命とも言われる所の実意丁寧神信心を貫かれて、天地にまでも繋がられる程しのおかげを蒙られたお方であります。お道の信心ではだから実意丁寧。
いうならばあなたのお名前そのままのご信心をなさったら、必ず良い道も開けて来ましょう、自分自身の助かりにも繋がって行く事でしょうと言うて、お話をさせて頂いた事です。教祖の神様はいうなら一農民の出でおありになります。難しい事は仰らなかったけれども、ただ実意丁寧の生き方からです。言うならば仕事が仕事を教えるように、本当の生き方とは真の生き方とはというものを、体得してお出でられた。
そしてこれで行けば、人間が幸せになるんだという道を体得された。いうなら人間が幸せになって行く法則の全てを、体験によって身を持って実証されたお方だと、私は思います。お道の信心の素晴らしいのはね、教祖ご自身がです一生を難儀な中に終わられたというのではなくて、ご自身が人間として最高の幸せをお受けになられた。天地金乃神様から見れば、いうならば生神金光大神という御神格を受けられて、神からも氏子からも両方からの恩人は、此の方金光大神であると。
神様からまでも恩人と称えられたお方であります。それはどこからそういうご信用を受けてお出でられたかと言うと。人間が幸せになる事の為の法則を、実意丁寧神信心を以って頂き貫かれたという所にありましょう。此の方は試しようがないと、神様を感嘆させておられます。此の方あってと神が一礼申すとも仰せられております。神様からお礼を言われるほどしの、私共に神習わせて頂いて、私共もそういうおかげを頂きたいです。あなたが助かられる。家内が助かる子供達も助かって行く。
そしてあなたの参りよる所へ、私も連れて行って下さいと言う様な方達が出てくるようなおかげを頂く時にです。私は神様がお礼を言われると思いますね。なぜかて神様がそれが願いなのですから。それこそ悲しいまでの願いを、人間氏子の幸せと言う事に焦点をおいてお考えになっておられる神様だからなのです。それには先ず私がおかげを受けなければならんと言う事になります。
朝の御祈念にもここのお広前が一杯になりました。今日から夏の信行が始まっております。一時の御祈念にもやっぱり、ここが一杯になりました。今晩もまたこの様に一杯であります。はぁもう合楽の信者さん達は、もし信者じゃない方が見たならね。朝から昼から夜も。とにかく、かかっとらっしゃならんとじゃん。とてもあげなこつなら私だん真似は出来んと、例えば言うておった人もです。そういう人達がおかげを頂いて行く。何とはなしに道が開けて行く。
何とはなしに一家が幸せになって行かれるのを見るとです。やっぱ連れて行ってくれと言わにゃおられんと言う事にもなるのじゃないでしょうかね。どうしたならばです。ほんならそのように合楽へ合楽へと、それこそ歌の文句じゃないですけれどもね。草木もなびかんばかりであります。どこにそういう秘密があるのか。今日の一時の御祈念の時でした。もうそれこそ若い方達が中心になって、それこそ一心不乱に大祓い奏上の信行。とにかく天津祝詞も一巻、大祓いも勿論一巻ですけれども。
力のある限りの声を絞って、全身で神様へぶっつかって行くと言う様な勢いを持ってしますから。何時も修行が終わるとここんにきの、一生懸命の方達の前には、膝の後がパーっと付いてしまうです。というくらいにいうならば熱烈な修行。ここではまぁ欠けておると言うなら、祈念力が欠けておると。ここで例えば広前に参ってきても、御祈念以外の時には、祝詞なんか奏上する人は誰もありません。みんなが御理解を頂いとるから、御理解の邪魔になる。だからみんないうならば、心中祈念をして行かれます。
ですから一生懸命の御祈念が、いわば出来んこのお広前では。それに年に一回の夏の修行だけは、それこそ心おきなく腹のどん底から、血を吐くような勢いで奏上致します。一二年はねこの隣近所から、隣村の西郷あたりまでも聞こえるそうです。もう皆んなの勢祈念の勢いがね。ちょうど昼の昼寝の時間ですよね、お百姓さんなんかは。だからもうやかましかちと言うて、口上が出るくらいでした。それでも最近はなかなか良い、その一つのリズムがありますから。
まぁ熱烈な事じゃある熱心な事じゃあると言うふうに、ああいう御祈念は止めてくれと言った様なことはないようになりました。という様な感動的な御祈念のそのものを修行として、一生懸命、皆さんがなさる。私の方の孫がです私の所へ出て来まして、皆んなが一生懸命しよるとを見てからね。私に言うんですよ。お父ちゃんやらみんな先生どんが、一生懸命やっとるからね。その何というですか勢いに驚いたんですね。それであれを止めさせろいうて私に言うんですよ。もう涙を一杯ためてから。
そのくらいに異様な感じのするほどしの御祈念が、毎年この七月の月一杯行われます。まだ参加した事のない方は、一遍でも一つそういう修行に参画させて頂いて、おかげを頂かれたら良いですね。だからもう夜の御祈念はご無礼しようと言うのじゃなくて、矢張りこの様に朝の御祈念にも、例えて高橋さんなどは朝の御祈念から、丁度御用をなさっておられましたから。丁度昼の一時の御祈念まで。そして一番最後にあの塗板に、今日の昼の御祈念あれを必ず塗板に、毎日これから書いて下さる訳ですけれども。
それを書き終わられてからでございます。北九州の方へ支店がございますからら、あちらへやらせて頂かなければならない。それで今から小倉の方へ参りますから。どうぞまたお月次祭には間に合います様にと言うて、お届けして帰られましたが、おかげでお祭りに間に合うて、ご参拝が出来ておられます。朝参り昼参り夜参り。もう仕事する暇はなか。その間に神様が、さっさと仕事をして下さるです。例えば商売は不振になっても良いです。ほかん所からおかげが回って来よるです。
田んぼの中に草が生えよるかも知れませんけれども。収穫だけはそれこそ久保山さんじゃないけれども、ここに久保山さんという熱心な信者が居ります。本当に神様が言うならば薬は毒だと。だから薬を飲ませて頂くならば、神様にお願いをしてそれこそ毒でも変じて薬になると様なおかげを頂かなければならんと頂いておるから、もう今年は田んぼに除草剤とか、又は虫を殺すあげなものを掛けない。所が段々段々その白うなってきた訳です。
所がです実際に取り上げてみました所が、例年よりも多かったと言う事実がございます。田んぼに虫が出来ても又は草が生えても、良い事が分かるでしょうが。そるけんのらりくらりしとるとじゃない。一にも神様二にも神様いうなら、三にも神様という生き方になりますとです。神様が先頭に立っておおかげを下さるのです。そういうおかげを私は超が着く様なおかげと思うですね。
合楽の場合皆さんが、合楽へ合楽へと通うてくるのは普通ではない。超が着く様なおかげの事実を目の当たりに見せて頂くから、ついてくるんです。朝から昼から晩からと申しましたが、実を言うとほんなら、昨日からと言うても良いです。昨日はああいう大祓い式、ああいう盛大なお祭りをさせて頂いた。そしてから又お供えがこげん沢山、ありゃ昨日んとじゃろうと思う人があるかも知れませんけれども。そんなこつは一つもない。まぁだお供えしとらんとです。どこからどういうふうにしてもう分からないです。
私が椛目で人がどんどん助かる様になりました時に、何年目かの除夜祭を終わらせて頂いて、みんなが帰らせて頂いて、ちょっとろうかに出ましたら、お米が三俵積んでございました。誰が持ってきたとも分からんのです。聞くけれども分からん。初めていうならば椛目に俵でお米のお供えがあったのでございます。私がその時の元旦祭に、その事を話させて頂いた。貧しいお爺さんとお婆さんが、いよいよ明日はお正月なのに、餅も付けないと言うておる。
そこで何がしかの品物を持って、お爺さんがもち米を買わして頂かんならん為に町にそれを売りに出かけました。大変寒い大変雪の深い日でした。首尾よくそのものが売れてやれやれ、今年もまぁ僅かばかりではあるけれども、お餅がつけるぞと思うて帰っておる道すがらに、ちょうどお寺さんの前を通りかかったんです。ところがお地蔵だん達が、ずうっとそれこそ雪帽子をかぶって、寒そうに立っておられるのを見て、もうそこを通り抜ける事が出来なかった。
折角得たその金で陣八傘を買わせて頂いたけれども、六人のおられるのに五つしか買えなかった。その五つの傘をかぶせて一つは、まぁ自分のタオルを出して頬かぶりをさせて、あなたはこれで辛抱して下さいという訳で、家に帰らせて頂いた。お婆さんがお帰りなさい。今日の守備はどうでしたか。今日はねおかげで売れた。売れたけれどもね途中で実は、こうこうだったと言うて、お婆さんにお話をした。
お婆さんが顔色を変えてお爺さん、あんたばかりは馬鹿じゃなかろうかとは言わなかったんです。皆さんならどうでしょうか。あんた人間の良かつもほどほどにしときなさいと。それじゃおかげは頂かれんのです。お婆さんが言わっしゃった。はぁお爺さん良い事をして来なさった。ついた餅より今年は心持で行こうと言うて、その晩は休ませて頂いたというのです。ところが夜中になったら、外へえらい賑やかな音がするのです。さまんこち言うてね窓を、こうやって開けてみますとね。
一生懸命に材木をかついでくるお地蔵さんがある。一生懸命にそれを削ったりする人がある。お餅をついておる人もある。着物を作っている人もある。その六人の地蔵さん達がです。もうてんでにそれこそ分業的にね、それこそ人間の幸せになる条件の全てを整えておられたというのです。私はこれは子供の時から、父が何十回それこそ、寝ながらお話をしてくれたお話なんですけれども。お道の信心はねこれで行かなければいけんのです。此の方の道は有難いで開けた道だから。
喜びに喜んで開けた道だから。喜びでは苦労はさせんとおおせられた。ですからそういう喜びの湧く信心を、いよいよさせて頂かなければいけんのです。そういう心の状態です。人間が幸せになって行くところの条件のすべてを、一つ一つマスターして行かなければいけんのです。そこから生まれてくるのは実意であり。そこから生まれてくるのは、我情我欲が取り払われた。真にわが身は神徳の中に生かされてあるなという実感が湧いてくるのでございます。
今日も秋永先生ところの、奥さんのお父さんの御霊の、十年の式年祭がございました。本当に何時の場合でも、御霊様のお祭りをする時に、それこそお道の教師として、お取次者としての感動。いわばお道の先生の冥利に尽きる、有難いものを何時も感じます。人間が助かるだけではなくて、御霊様方が助かっておいでられる、その御用をさせて頂くという事が有難い。と言うてほんなら私が如何に偉かったからと言うて、助かるのじゃない。それを取次を願う遺族の者が、そして私がそして神様がお喜び下さる。
そこに御霊の助かりがあるのです。大変有難い御理解を頂きましたけれども、それは省きますけれど。後からご直会の席で、見事な鉢盛りがあった。どうもこの辺のとは違うごたるから、こらどこんとですかち聞きましたら。これは篠栗でございますち言わっしゃた。あのお大師様がある所でしょう。ほうそげな遠かとこから、それがもう今日はあぁた、それを取り行くために、それこそ冷房を利かせてそれから、向こうの魚屋さんに取りに行った。第一魚が新しい。値段がとにかくどこの魚屋さんよりも安い。
そういう生き方で行きゃです。例えば大橋と篠栗といや、あんなに離れた所を、わざわざ自動車をもって取りに行くです。教祖が体得されたのはそれです。商売をするなら人が十銭で売るものは八銭で売れ。もう絶対商売大繁盛のおかげになってくるです。それこそ大橋からいわば篠栗までも、しかも取りに行って。そらどうも鮮度は悪い値段な高っかち言うなら、売れはしませんです。
いかにもそれは儲かるごとあるけれども、それでは本当の人間の幸せはつかめない。もう一事が万事その生き方です。教祖の御教えを紐解くとその事が一杯です。ご自身の体験から生まれた幸せになるためにはの、しかもそれは難しい事ではない。誰でも行じようと思えば行じられる所の、おかげの受けられる御教えを、合楽ではそれをまた一段と、深く広く頂かせて頂くのでございますから。
そういう合楽のそれこそ日田の伊藤さんではないですけれども、合楽の御理解の虜になったと言うておられます。その虜になると言うだけではなくて、それを教えを行ずる楽しみ、行ずる有難さと言うものがです、段々出来てこなければなりません。先ほど西岡先生が、手習いの事から言うならば、お話しておりましたようにです。そこから手習いの楽しみとか、有難いものが生れてくる。
そういう信心をです、いわゆる実意と言うものを焦点において。私は今日はその実意と言う事について、さっき平木さんに申しました事でしたけれどもね。一口に実意と言うただけでは分からん。ちょっとした見本は正義さんですよと、言うたけれども、それも本当には分からん。それであなたの心から、わがままと横着な心を取り除きなさい。後に残るものは実意だと言うてお話をしたことでございます。
おかげ頂きまして、有難うございます。